佐藤ひよりのプロフィール

当ブログの運営者、インドネシア好きライターのひより(@hiyoriworld629)です!

  • 外国語学部インドネシア語専攻卒業
  • 日系メーカーの海外営業部に就職
  • 米国外資系メーカーに転職
  • 現在はフリーランスのライター・翻訳家
  • 旅と音楽と暖かい場所が好きな人

 

今回の記事では、運営者について知って頂けたらと思います。

 

幼少期~高校時代

高校時代のわたし

1991年6月生まれの北海道出身。
家族仲は良く、父、母、兄が2人という平凡な家庭の末っ子として育つ。

家が建設会社を営んでいるため、小さい頃から両親がリビングで図面を書いたり仕事をしている姿を見ていました。

親の影響もあり、小さい頃から漠然と「将来は自営業でもやるか」なんて思っていた気がします。

長男は、生徒会長や部活のキャプテンを任せられるような優等生。
次男は、よくケンカをして警察のお世話になるような不良少年。

そんな真逆なタイプの兄2人に可愛がられながら、無事に18年間を北海道の田舎町で過ごしました。

修学旅行にて。

ちなみに小さい頃から音楽が好きで、小学校から高校まで吹奏楽部。
ピアノとトランペットとフルートができます(いや、もうできないかなw)

 

大学時代

一番左。飲んで遊んで勉強してひたすらに楽しい学生生活。

高校までを北海道で過ごし、大学進学をきっかけに千葉県は幕張へ引っ越すことに。

10代のほとんどの時間を田舎で過ごしたため、その反動で北海道の外の都会、そして日本の外の海外への興味が強かった記憶があります。

そのため、進学先は外語大外国語学部インドネシア語専攻。

よく周囲から「なんでインドネシア語を勉強しようと思ったの?」って聞かれるんですけど、正直なところ大した理由はありません。

ただ、英語が喋れる人は世の中にいっぱいいるし、どうせなら喋れる人が少ないマイナー言語の勉強をしておいたほうがネタになるのでは?と思っただけです。

「人と同じはつまらない。」

この価値観は、今も昔も変わりませんね。

 

大学時代にインドネシアの魅力に気づく

大学時代は毎日がインドネシア漬けの日々で、大学1年の頃初めて研修でインドネシアへ訪れました。

訪れたのは、ジャワ島のマランという田舎町。

写真中央わたし。

この短期留学がきっかけでインドネシアの魅力に気づき、インドネシアという国、そしてインドネシア人のことがもっと知りたいと思うようになりました。

特にわたしが気に入ったのが、インドネシアのゆったりとした空気感やインドネシア人の穏やかな国民性
この2つが、わたしの性格にとても似てると感じたのです。

大学2年生で参加したインドネシア語スピーチコンテスト(ちなみに入賞せずw)

インドネシアや東南アジアをメインの貧乏旅行も繰り返していました。

大学時代はサークル活動も飲み会もほとんどせず、海外旅行や留学生との交流ばかり。
だけどそんな毎日が楽しくて仕方がなくて。

わたしにとって海外の文化に触れること、外国の人々の価値観を知ることほど刺激的で面白いことはありませんでした。

この頃から「将来は絶対に日本と海外(特にインドネシア)を繋げる人になろう」と考え始めます。

 

新卒で入社した企業を1年半で退職

卒業式にて。

大学卒業後、大手の総合電機メーカー(神奈川県)へ入社。

大学時代に希望していた通り、大規模でグローバルな仕事ができそうな海外営業部に配属され、鉄道をアジア各国へ販売するプロジェクトを担当しました。

入社してすぐに会社の業績が傾き、株価がストップ安になったり、粉飾決算で社長が退陣に追い込まれたり。
予想だにしないトラブルがたくさんあったのも、今となっては良い思い出ですw

海外営業として働いていたので、海外出張にも行かせてもらえて貴重な経験もできましたね。

初海外出張で見たシンガポールの夜景。

ただ、夢だった海外とかかわる仕事に就けて最初は充実していたものの、「わたしは本当にこの仕事がしたかったのだろうか。」とモヤモヤとした気持ちが徐々に芽生えるように。

担当したクライアントがシンガポールと韓国で、このまま今の会社で働いてもインドネシアには行けないだろうな。と気づいて絶望したことが退職の決定打になりました。

せっかく運良く入れた大企業。
1年半で辞めるのには、かなりの勇気が必要。

だけど、1回きりの人生。
好きなことをしようじゃないか!と退職を決意したのです。

 

転職したりフラフラしたり迷走期

退職した後、自分の性格に合いそうで尚且つ海外に関われる仕事を求めて転職活動。
米国系の航空機メーカーに転職しました。

この外資系企業は結局1年で退職しましたが、最初の日系企業と比べて仕事はとても楽しかったです。

社内政治や無駄な事務処理がない、アメリカ独特のサバサバした社風がわたしに合っていたのでしょう。

ただ、1年ほど働いたものの「なんか違う。」と感じ、あっさりと退職。

特に辛いことがあったわけでもない。
社内の人間関係も良い。
仕事もそれなりにやりがいがある。

それでも退職したくて仕方のなかったわたしは、組織で働くことに向いていないのでは?とさすがに落ち込みましたねw

次に何をするか決めずに退職してしまったため、一先ず気分転換に旅に出ることにしました。

1年半住んでいた家を引き払い、慣れ親しんでいたインドネシアはバリ島へ。

会社員時代も長期休暇のたびにバリ島へは行っていましたが、会社を辞めてから初めて訪れるバリ島はなかなかの新鮮さ。

日本にいた時は、友人や周囲の人に「自分は無職だ」ということを伝えると、「将来のことを何にも考えていない」とか「安定してる会社を辞めてもったいない」とか色々言われました。

しかし、インドネシア人に同じことを言うと反応はまったく違って「仕事をしてないなら、これから毎日遊んでられるね。最高じゃん」なんて言うんですよ。

毎日同じ時間に出勤し、決められた場所で働くことが正解だと思っていたわたしには、とても救われる言葉に感じました。

もっと自由に生きたい。
そのためにはどうしたら良いのか。

そう考えて日本帰国後に必死で調べたところ、田舎フリーランス養成講座の文字をネットで発見したのです。

 

2018年5月田舎フリーランス養成講座に参加

2018年5月に参加した田舎フリーランス養成講座。終了パーティーの時の写真

貯金も残りわずか。
早く稼がないといけない。
だけど会社に縛られるはもう嫌だ。

これはもう、フリーランスとして独立するしかない。

背水の陣で参加した田舎フリーランス養成講座は、わたしの人生を変えてくれました。

 

【田舎フリーランス養成講座】好きなことに本気で挑戦する勇気を得た4週間

自分が1番驚きましたが、まさかたった1ヶ月で無事にライターとして生計をたてられるように。。

「独立して稼げなかったら死ぬ」と必死でライティングしたのはもちろん、ここで結果を出せたのは講師のみなさま、そして同期のみんなのおかげなのは間違いありません。

本当に、ありがとうございました。

ちなみにこの田舎フリーランス養成講座を受講し、金谷という地を気に入ったわたし。
講座終了後、そのまま金谷へ移り住みました。

キャリケース1つで転々としていたわたしが、独立するスキルだけでなく居場所まで得られたのは本当に奇跡でしたね。

 

金谷移住から現在(2019年)

左わたし。田舎フリーランス養成講座受講中の女性たちと。

結局この金谷には、半年ほど住みました。

金谷には20代のフリーランスが多く、仕事のことはもちろん、毎日夜までどうでも良いことで語り合って楽しかったですね。

誰かのシェアハウスでご飯を食べたり、海でみんなで語ってみたり。

金谷に住民票は置きながらも、インドネシアと行ったり来たりの日々でした。

ライターとしてお金を稼ぎながら、インドネシアの各地をまわる。
駆け出しフリーランスの海外ノマド生活は正直大変でしたが、その大変さも気にならないくらい、自由で刺激的な毎日に満足していました。

うっかり歌手として出場することになったアジア競技大会。バンドメンバーと。

バンコク(今はインドネシア)でフリーランスしてるshocoさんとの出会い

バリ島でヴィラを経営するBintang夫妻との出会い

 

人生諦めてたただの会社員だったわたしですが、いつの間にか人生めちゃくちゃ楽しくなってて。

だから未来のことなんてわからないけれど、きっとこの先もどうにかなるし、きっと楽しいんじゃないかなって思っています。

 

現在のわたし

2019年7月現在のわたしは、日本のどこかにいながらライター・翻訳家として活動をしています。

これからもインドネシアへは行きますし、インドネシアの情報をブログやTwitterでも発信していけたらなと。

ただ最近感じたのは、インドネシアも良いけど、日本も結構良い国なのでは?ということ。

海外ばかりに目を向けていたわたしですが、1回落ち着いて日本のことを学びたい気持ちが強くなってきました。

なので今後はライターとして、日本とインドネシアの両方の良さを発信していきたいです。

最後までプロフィールを読んで頂いたみなさま、誠にありがとうございました!

 

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